東京高等裁判所 平成5年(う)1240号 判決 1994年2月23日
主文
原判決を破棄する。
被告人は無罪。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人斎藤壽が提出した控訴趣意書、同訂正申立書、同補充申立書に記載されたとおりであるから、これらを引用する。
一 控訴趣意第一点について
論旨は、要するに、原判決には、審判の請求を受けない事件について判決をした違法がある、というので、以下に検討する。
(一) 本件公訴事実の要旨等
本件公訴事実の要旨は、「被告人は、平成四年一二月四日午前八時一〇分ころ、普通貨物自動車を運転し、川崎市川崎区渡田四丁目八番一四号先の交通整理の行われていない交差点を渡田新町方面から旧市電通り方面に左折するに当たり、右交差点には一時停止の道路標識が設置され左右の見通しも困難であったから、同交差点の直前で一時停止して左右道路の交通の安全を確認すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、同交差点の直前で一時停止したが、右方道路の安全を十分確認しないで時速約一〇キロメートルで進行した過失により、自車右側面を右方道路から進行してきた上田裕之運転の自動二輪車に衝突転倒させ、同人に加療約一〇週間を要する左上腕外科頚骨折の傷害を負わせた」というものであり、被告人は、右事実について、略式起訴され、罰金一五万円の略式命令を受けたが、これを不服として、正式裁判の請求に及んだものである。
そして、検察官は、原審第三回公判期日において、右公訴事実に関する釈明として、「平成四年一二月一七日付実況見分調書添付の現場見取図(被告人立会いのもの、以下見取図という。)の、被告人が被害車両を発見した③地点で、時速約一〇キロメートルの被告人車が急制動の措置を講じたとしても、衝突した地点までの距離を考えると、衝突を回避することができないので、被告人には、被害車両の通過を待って左折進行すべき注意義務の懈怠による過失はない」とするとともに、論告中において、被告人の過失は、「本件交差点を左折するに際し、一時停止の道路標識に従い一時停止したが、現場道路は左右の見通しが困難であるうえ、右方道路からは左折してくる貨物自動車のため、右方向の見通しが困難であったのであるから、左折車の通過を待って、右方道路の安全を確認したうえ、左折進行すべき注意義務があったにもかかわらず、これを怠り、右方道路の安全を十分確認しないまま左折進行した」ことであると述べて、被告人に具体的にいかなる注意義務が要求されていたのかを明確にした。
(二) 原判決の認定した被告人の過失
原判決は、罪となるべき事実において、「本件交差点には一時停止の道路標識が設置され、左右の見通しも困難であったから、同交差点の直前で一時停止して左右道路の交通の安全を確認すべき注意義務があるのに、同交差点の直前で一時停止はしたが、右方道路の安全を十分確認しないで時速約一〇キロメートルで左折進行した過失」がある旨認定するとともに、(事実認定の補足説明)の項において、「左折貨物自動車も徐行進行しているのであるから、必ず、左折車の通過を待ってからでなくては、被告人車は左折進行してはならないともいえず、この間に被告人車も左折進行を開始しても差し支えないものと考えられるのである。……ただし、このような場合に、左折車のあとから直進進行してくる車両のあることは十分予想しうるのであるから、この直進車の進行を妨害しないように、被告人車としては、右方道路からの直進車の有無及びその安全を確認しながら左折進行する注意義務を負うのである。」、しかるに、被告人は、「左折車の後から青色信号に従って直進進行してくる車両の有無及びその安全の確認を怠ったまま、左折進行した過失により、右方道路から直進進行してきた被害車両の発見が遅れ、その進路を妨げることになり、被害車両に急制動を余儀なくさせて、転倒、滑走させるに至ったものであり、その刑事責任は否定できない。」と判示した(なお、本件交差点は交通整理の行われていない交差点であって、原判決の判文中にある「青色信号」というのは、本件交差点北東約四〇メートル先の旧市電通りに設置された信号機の表示を指す。以下同じ。)。
(三) 所論と当裁判所の判断
所論は、この原判断を論難し、原判決は、検察官の主張する「左折貨物自動車の通過を待って左折を開始すべき義務」を否定したのであるから、原判決のいう被告人の過失は、具体的には、「貨物自動車の後から直進進行してくる車両の有無及びその安全を確認していたならば、被告人車が右貨物自動車の通過を待たないで、見取図の②地点(貨物自動車を認め、ハンドルを左に切った地点)から、③地点(地点に被害車両を認めた地点)までの間に、被害車両を発見できたはずである」ということになるが、これは、明らかに訴因と異なる事実を認定するものである、弁護人は、「左折貨物自動車の通過を待ったうえで、右方道路の安全を確認して左折を開始すべきであった」という訴因に対する防御に専念してきたのであって、原判決の右認定は、被告人に対する不意打ちであるから、原判決は、刑事訴訟法三七八条三号により、破棄を免れない、というのである。
しかし、訴因の主張するところは、あくまでも、「左折時における右方道路の安全確認義務」の懈怠であり、左折貨物自動車の通過を待って左折を開始すべきか否かは、右方道路の安全確認の一方法であって、検察官の右釈明及び論告は当初の訴因を右の範囲に限定するほどの拘束力をもつものではないと認めてよい。すなわち、検察官は、論告中において、右方道路の安全確認義務を尽くすためには、左折貨物自動車の通過を待つべきであると主張したのに対して、原判決は、過失内容を、同じく、右方道路の安全確認義務ととらえつつも、その義務を尽くす手段としては、左折貨物自動車の通過を待つことまでは要求されないとしたにすぎないのである。したがって、検察官の主張する過失と原判決の認定する過失とは、その態様において、若干異なる部分があるとはいえ、被告人の過失行為を「左折時における右方道路の安全確認義務違反」ととらえている点においては当初の訴因の範囲内であるから、釈明、論告とは若干異なる過失を認定したとしても不意打ちというまでのことはなく、原判決が審判の請求を受けない事件について判決をしたという非難は当たらないというべきである。論旨は理由がない。
二 控訴趣意第二点、第三点について
論旨は、要するに、原判決が、被告人に右方道路の安全を十分確認しなかった過失があるとしたのは、事実を誤認し、かつ、過失に関する法令の解釈適用を誤ったものであるとして、要旨、以下のとおり主張する。すなわち、
(1) 原判決は、「左折車の後から青色信号に従って直進進行してくる車両の有無及びその安全の確認を怠ったまま左折進行した過失により、右方道路から直進進行してきた被害車両の発見が遅れ、その進路を妨げることになり、被害車両に急制動を余儀なくさせて、転倒、滑走させるに至ったものであり、その刑事責任は否定できない。」と判示した。しかし、被告人は、左折貨物自動車の後から直進してくる車両は全くないと判断して左折進行を開始したのではなく、右貨物自動車の後からすぐに徐行もしないどころか、制限速度を超過する速度で直進してくる車両はないものと判断して左折を開始したのであり、しかも、左折進行しながらも、右方道路からの直進車の有無に注意を怠らなかったのである。そうであればこそ、被告人は、見取図の③地点に至った時、16.4メートル右方の地点に被害車両を発見したのであり、③地点の手前では、被害車両の発見は不可能だったのであって、被害車両の発見が遅れたという過失はなかった。
(2) 原判決は、「直進車は、信号その他の道路条件による規制は別として、何人からも、その直進進路を妨害されない基本的な条理上の権利を持つのが現今の交通ルールである」として、被害車両に優先通行権を認めるとともに、被害車両の速度を時速約四〇キロメートルと推定したうえ、被害車両には制限時速三〇キロメートルを超過した速度違反の事実はあるが、甚だしい速度違反とはいえず、被告人にいわゆる信頼の原則を適用することができない、などと判示した。しかし、被害車両に条理上の優先通行権があるというのは独断であり、被害車両には、徐行義務(道路交通法三六条三項、四二条一号)、交差道路を通行する車両の進行を妨害してはならない義務(同法三六条二項)が免除されるものではないところ、被害車両は、時速約四〇キロメートルどころか、時速五〇ないし六〇キロメートルで交差点に進入しようとしたのである。被告人には、交通法規に違反してこれほどの高速度で交差点を進行しようとする車両のありうることまで予想して、交差道路の安全を確認し、事故の発生を未然に防止しなければならない注意義務はない。
以上の所論にかんがみ検討するに、関係証拠によると、本件事故現場付近の客観的な道路状況は、原判決が判示するとおりであって、これを要約すると、本件事故現場は、交差道路で行き止まりとなる被告人進行道路と北東方面から南西方面に通じる被害者進行道路が交わる交通整理の行われていないT字路交差点であり、被告人進行道路には、歩車道の区別があり、車道幅員は約9.5メートル(左側部分は約4.7メートル、右側部分は約4.8メートル)で、中央には破線の中央線が、交差点入口には一時停止の道路標識及び道路表示がそれぞれ設けられており、一方、被害者進行道路は、両側に路側帯はあるものの歩車道の区別はなく、車道部分の幅員は約5.6メートルで、中央線は設けられていないこと、また、交差点の角には建物があって、被告人進行道路から見ても、被害者進行道路から見ても、相互に交差道路の見通しが困難であることが明らかである。
そして、被告人は、事故の状況について、普通貨物自動車(軽四輪)を運転して、交差点の手前で一時停止の道路標識・表示に従い、前記見取図の①地点で一時停止したうえ、発進し、②地点まで時速約一〇キロメートルで徐行しながら進行すると、②地点で左折する大型貨物自動車を地点に認め、交差点角の建物と右大型貨物自動車に遮られて右方道路の見通しがきかなかったが、左折車のすぐあとに続いて車が来ることはあるまいと判断して、引き続き左折進行したところ、③地点(原審公判廷では③地点よりもう少し進んだ所とも言う。)で右方道路の地点に直進してくる被害車両を認めた、しかし、そのまま進行したところ、被害車両が転倒、滑走し、④地点で自車の右側面後部に衝突した(衝突地点は地点)、というのである。
この被告人の供述は、事故直後から一貫して変わらず、被告人の認識しているところを偽ることなく供述していると認められるし(被告人が供述する被害車両を発見した時の被告人車と被害車両の位置及び両車の距離関係は、被害者が供述するところの被告人車を発見した時の被害車両と被告人車の位置及び両車の距離関係とおおむね一致している。)、被告人の過失の有無に関するその後の捜査、審理もこの供述を前提として進められているのであって、左折中の大型貨物自動車の位置関係等につき確たる証拠もない本件においては、当審としても被告人の供述を信用できるものとして扱うほかないものと思われる。
そうだとすれば、原審検察官が「公訴事実に対する釈明」において認めるように、被告人が被害車両を発見した③地点においては、仮に被告人が急制動の措置を講じても、被害車両の速度と両車の距離関係等に徴し、衝突を回避することはまず不可能であるといわざるをえないから、原判決の認定した被告人の過失を肯定するためには、それ以前の地点すなわち②地点から③地点までの間に被害車両を発見することが可能でなければならないところ、被告人から見ると、交差点角の建物と左折中の大型貨物自動車(被害者の供述によっても、全長約七メートル位はあったという。)に遮られて右方道路を見通すことができないと認められるから、被告人に原判示の過失を肯定することはできない。
それゆえ、被告人に右方道路の安全確認義務を尽くさなかったという過失を肯定するためには、原審検察官が論告中で主張するように、被告人の視界が左折中の大型貨物自動車に遮られて右方道路を見通すことができない以上、その大型貨物自動車の通過を待ったうえで、右方道路の車両の有無及びその安全を確認するという義務を要求することが認められる場合でなければならない。そこで、この点について検討するに、被告人としても、交差点角の建物や左折中の大型貨物自動車に遮られて、その後方の車両等の状況が全くわからなかったのであるから、左折車の通過を待って右方道路の安全を確認してから、左折すべきであった、とする考えもそれなりに理解できないわけではない。被告人がもしそのような対応をしていれば、事故を回避できたであろうことは明らかであり、慎重な運転者であれば、そのような行動をとったであろうと思われる。
しかし、更に考えてみると、本件交差点は、既に述べたように、交通整理の行われておらず、かつ、交差道路の見通しがきかない交差点であって、被害者としても、道路交通法四二条一号により、交差点に入ろうとする場合には、徐行しなければならなかったのであり、しかも、先行する左折中の大型貨物自動車に見通しを妨げられて、交差道路の状況や右自動車の死角になる部分の状況は全く見通すことができなかったのであるから、徐行義務を尽くすことがより一層要請されていたといわなければならない。しかるに、被害者の供述によっても、被害車両は制限速度の三〇キロメートル毎時を超える時速約四〇キロメートルで交差点に進入したというのであり、要するに、被害者は、交差道路の見通しが全くきかず、先行車両の左折中に交差道路から交差点に進入してくる車両がありうることも容易に予想できるのに、徐行義務を尽くすことなく、右高速度のままで、左折をほぼ終えた大型貨物自動車のすぐ後ろを追い抜くようにして交差点に進入しようとしたのである。しかも、被害者の供述によっても、被害者が被告人車を発見した時には、被告人車は被害車両より先に交差点に入ろうとしていたのであるから、むしろ、被害車両の方が被告人車の進行を妨害してはならなかったということができる。それにもかかわらず、被害車両が被告人車に追突してしまったのは、ひとえに被害車両の速度の出し過ぎによるものというほかない(加えて、被害車両の速度を時速約四〇キロメートルとすれば、被害者の制動措置に不手際があったことも疑われる。)。したがって、被害者の運転は、やはり法規に著しく違反する運転といわざるをえず、被告人にとって、左折を終えたばかりの大型貨物自動車のすぐ直後を、徐行義務等に違反し、右のような高速度で追い抜こうとする車のありうることまで予想して、その車に追突されることを避けるために右大型貨物自動車の通過を待ち、かかる車両のないことを確認して左折を開始すべき注意義務はないと解するのが相当である。そのうえ、空走距離を基礎に被害車両の速度を推定すると、その速度は、時速約四〇キロメートルにとどまらず、それ以上に高速であった可能性も否定できないところである(本件においては、被害者は、衝突の危険を感じ、前輪のみの急制動をかけたが、安定を失って転倒し、そのまま滑走して被告人車に衝突し、ようやく停止したのであるから、スリップ痕や擦過痕から速度を推定することは極めて困難であり、原判決がこれらの点を被害車両の速度認定の根拠としたことは明らかに誤っているといわなければならない。)。加えて、被害者は、「友人の所に用事があって急いでいた」(被害者の原審証言)のか、「大学の試験があり、早く大学に行こうとして急いでいた」(被害者の当審証言)のかは別として、ともかく急いでいたことに間違いはなく、しかも、本件交差点の先にある交差点の信号が青色を表示していたため、青色のうちにその交差点をも通過しようと思っていたというのであるから、被害者が思っていた以上に、客観的には速度が出ていたことも、十分に考えられるのであって、このことも、前記判断を支持する一つの根拠になるといってよい。そうだとすれば、なおのこと、被告人において、左折中の大型貨物自動車の存在によって右方道路の見通しが妨げられていたとしても、徐行義務等に違反し、右のような高速度で右大型貨物自動車のすぐ直後を追い抜くようにして交差点に進入する車のありうることまで予想して、右大型貨物自動車の通過を待ち、右方道路に対する安全を確認し、もって事故の発生を未然に防止すべき注意義務はないと解すべきである。被告人車の方が明らかに先に交差点に進入していること、事故の態様が被害車両の追突によるものであること、それに被害車両の速度を考えれば、本件事故の原因はもっぱら被害者の過失にあるというほかない。
右のとおりで、被告人に右方道路の安全確認を怠った過失を認めることはできない。論旨は理由がある。
よって、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条ただし書により被告事件につき更に判決する。
本件公訴事実は、前記のとおりであるところ、被告人に公訴事実記載の過失を認めることができないので、結局犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡しをする。
(裁判長裁判官早川義郎 裁判官仙波厚 裁判官原啓)